えいごのいずみの時間は夕方なので、良くも悪くも学校の影響を引きずってこどもたちがやってきます。
4、5年生はシュタイナー教育でいうところの9歳の危機とか、ルビコン超えの人たちなので、まあだいたい不機嫌です。
この「9歳の危機」っていうのは、地上に降りてきた子ども達が、今までは肉体に精神が入りきってなくて、ある意味、世界と一体化してたのに、9歳になると、肉体に入りきって、「これからは地上で生きていかねばならんのね」と自覚する時期です。それまでは、もうすこしぼーっと夢見てる感じに近い。
でも不愉快さには、大きく分けて二種類あります。
1 その日、本当に不愉快なことがあった
ひとつには、本当に不愉快なことがあって不機嫌なとき。発達に凸凹があったりして、周りとうまく折り合えなかったりすると、いわれのない不愉快な思いをせざるを得ない子もいます。いじめ的なことが起こってくるからです。いじめられる方に問題があるっていうのは違うといいますが、10:0で片方だけが悪いってことはないですね。双方、なんらかの理由がある。いじめる子もいじめられてるも神さまじゃない。「人間だもの。みつお。」そのためにわざわざ地上に生まれてきてるんだけど。
こういう人は、教室が終わるときには、「どかん」とハッピーになって帰ってもらえます。なに、こちらがラブを持って対処すれば良いのです。その人の特性を認めてあげて、それに沿った対応をして、その子のことを尊重した対応をします。だいたい最初に来た時とは全然違うムードで帰っていきます。
2 演技としての不機嫌
もう一つの不機嫌について。もうね、ほんと4年生の先生って大変ですよね。みんな不機嫌だから。でも最近の子どもたちの不機嫌さにはある種の演技が見られます。授業が「つまんないふり」をしないといけないと言わんばかりの態度です。そして、「疲れた、疲れた」と言います。
で、これを看破したのが内田樹の『下流志向』2007年でしょう。これ読んで、なるほどね、と、思いました。
覚えてる範囲で書きますが、昔の子どもは、社会との最初の関わりがお手伝いであった。しかし、ここ30年くらいでしょうか、子どもに手伝ってもらうような家事労働がなくなって、子どもの社会デビューが、労働ではなく、「お金を持って買い物にいく」ことになった。お金というのは、4歳児が100円出しても大人が100円出しても同じ価値を持ちます。ここで、子どもは、お金に対して、ものすごい全能感を持ちます。はなから消費者として鍛え上げられていき、そして、学校に入ってきます。消費者というのは、同じ100円なら、より良い内容のものが買えたら得だと考える人たちです。ですから、最初から授業に対して嬉しそうにしてしまうと、もっと面白いものを出してもらえるかもしれないのに、出てこないかもしれない。ならば、全力で不機嫌な態度をとろう、と、考える、という趣旨のことが書いてありました。
えいごのいずみに来る子たちも、「今日はゲームしますか?」って言って入ってきます。で、やらないと、「最悪う!」などと、言いやがります。それが消費者だからです。特に男子ね。女子も不機嫌そうにはしてますが、基本受け身でしっかり元をとろうとするのが女子のスタンスなので、あまりそういうことは言いません。でも不機嫌プレイはします。
で、みなさん、極力、つまんなそうにします。疲れている風をしますし、実際、「疲れた、疲れた」といいます。それは、またこれも内田樹の同書によれば、お父さんの労働を今は目にすることがありません。お父さんは、自分の働いている成果を見せようとするには、とにかくくたびれた顔で帰ってきて、その「疲労感」「不機嫌さ」で自分が頑張っていることを見せるしかないのです。
これを見ている子どもたちは、「疲れている人がえらい」と学習します。だから「疲れた」と連発するのです。
なるほどね〜、と、思いました。
でもね、こっちはプロだからね。あと、少人数制だからできることがあります。
子どもが「疲れた」だの「つまらない」だの言わなくなるような内容を考えて行きます。
そして、1人ひとりの子とつながって、年齢に沿った内容を面白く提示してあげれば、つい意欲を出してしまうのです。どんなにつまんないふりとか、「英語なんか別に」的な態度をとろうとしても。
それは授業をしてると手応えでわかります。
で、授業の終わりに
「えっ、もう終わり?」
っていうのです。これを聞くと、内心(やった!)と思います。
ちょっと時間がなくなったので、なんの授業をしたかは別に書きます。
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